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宮下弘 『特高の回想 ある時代の証言』より抜粋(2)・・・・・・日本共産党は「議会の破壊」をうたっていた。良家の子女が多く、検挙しても親の猛抗議で釈放。

特高の回想
特高の回想―ある時代の証言 (1978年)



警視庁特高第一課係長・宮下弘氏の回想録を抜粋・紹介するシリーズ。
第二回目は「日本共産党の壊滅まで」の章の前編です。

コミンテルン日本支部として誕生した日本共産党がなにかと暴れるもんで、治安維持法ができたわけですが、
党員を捕まえてみたらブルジョアのボンボンだらけ、親の圧力でたちまち釈放、特高涙目だったのであります。
しかしこれが、党壊滅に大いに役立つスパイ誕生のきっかけだった、というお話など。





日本共産党の壊滅まで


警視庁特高課へ


----警視庁の特高課に転じて、最初の印象はどうでした? やはり、ふつうの警察とはだいぶちがったのでしょう。

当時の警視庁は震災でやられたあとで、桜田門外に仮庁舎がありました。そのウナギの寝床みたいな建物の廊下をまっすぐ入って行った左側が特高の部屋でした。全員が私服勤務で、平常はふつうの官吏同様に日勤で、みんな忙しそうに自分の持ち場で働いている。昼休みになるとキャッチボールなんかやっていましたが。

----特高に配属されてからはじめて『赤旗』や『第二無産者新聞』というようなものを見た、というわけですか。

そうですね。最初、『赤旗』を「あかはた」といいましたら、「せっきというんだ、そんなこっちゃダメだ!」と怒鳴られたてりしましてね(笑)。過激なものでしたね。檄文の後にはかならず、「プロレタリアートの祖国・ソビエト同盟を擁護せよ!」など、共産党のスローガンが列挙してある。
これは余談ですが、『日本共産党の五十年』を読んだら、「プロレタリアートの祖国」を除いて、「ソビエト同盟の防衛」とのみ、説明もなしに掲げてあったのには奇異な感じがしました。たぶん、今の共産党がソ連と仲たがいしているので、歴史の中でも"祖国"としたことをやめたくなったのでしょうか。

----三・一五当時からすると、四・一六以後、特高はずいぶん規模が大きくなったのでしょう?

小林五郎という元警視庁詰記者の書いた『特高警察秘録』という本をみますと、「三・一五事件の頃、警視庁特高課は特高係、労働係、内鮮係、検閲係を加えて総勢七十人くらいだ。その年の八月に大増員があって三百八十名となった」とあり、この記述は正確だろうとおもいます。
歴史をさかのぼると、「特別高等」という名称のセクションが設けられたのは、大逆事件のあと、明治四十四年(一九一一年)だそうです。それ以前の政治的社会的過激運動の取締りは、高等課または保安課が担当していた。そのときは警視庁だけだったのですが、ロシア革命があって急に共産主義者が抬頭し、大正十年(一九二一年)の暁民共産党事件、大正十二年六月検挙の第一次日本共産党事件などが発生するに及んで、北海道、神奈川、大阪、京都、兵庫、愛知、山口、福岡、長崎、長野にも設置されるようになったのです。

警視庁の特高係を警察署では本庁特高と呼び、警察署の特高は高等係(一般の政治情報)を兼ね、これは本庁特高の補助的な仕事しかしていなかった。本庁特高から署に留置を委託されている被疑者にたいして、委託にもとづいて手記を書かせたり、本庁特高の指揮に従って管内の被疑者を検挙したりする、ということですね。
したがって、署の特高が自主的に治安維持法違反の被疑者を内偵検挙し、取調べをするなどということは、皆無だったといってもよい。まして非合法組織の要員をスパイに使うなどということはなかった。

だから、これはすこしあとのことですが、昭和八年(一九三三年)末に、共産党のリンチ査問事件宮本顕治らに殺された小畑達夫が、万世橋署の特高主任高橋警部に使われていた----こういう人物はいないのですが----という共産党の発表は、ありえないのです。

----特高係のなかで宮下さんはなんの担当だったのか。

わたしは、治安維持法違反の青年運動担当という任務を与えられたのですが、このチームは主任が庵谷警部、その下の警部補がわたし、それから巡査部長一名、巡査二名、計五名でした。これが無産青年社、共産青年同盟などを担当したわけです。
これは余談ですが、本庁特高も一般警官と全く同じ待遇でしたし、私服で飛びまわる費用のため、生活はいつも窮乏していましたが、それでも堪えられたのは、暴力革命でソ連に日本を従属させようという共産党を消滅させるという、国家的な仕事に打ち込むよろこびをもっていたからです。

----ずいぶんすくない人員ですね。それだけで共産青年同盟の動向をキャッチしたり、検挙したり、取調べたりしたのですか。

四・一六のころまでは、共産党自身、いろんな団体や運動の陰にかくれて、共産党の姿は一般の眼にはふれなかった。
それが四・一六以後、「プロレタリアートの党は唯一、日本共産党のみ」と表明し、公然と一般大衆に呼びかけをはかった。武装した宣伝煽動隊を組織し、多くは払暁に、大工場、大経営をめざして出動させたりした。
これがほとんど共青の活動だったものですから、われわれは忙殺されましたが、各署の特高係や非番巡査なども、そのつど動員して警戒や検挙にあたりました。共産党が武装して、警官にたいする殺傷事件をあいついで引き起こしたりしたおかげで、共産党や共産青年同盟などの活動は、特高だけではない、いわば全警察官の取締り対象になったわけです。
当時の共産党や共青は、自分たちが公然と姿を現したことを誇りにしていましたが、それは同時にまた国民の反共意識を盛りあげたともいえるので、それが特高の仕事をずいぶんやりやすくしました。。

----共産党や共青の動きの情報をとるのは、どういうふうにして・・・

いちばん初歩的なのは、交番から注意報告があがってくるということがありますね。どこそこの家はどうも人の出入りがはげしくて、得体のわからぬ人間が多い、住人の職業も不定である、というような報告ににもとずいて私服が内偵探索する。
しかし多くは、被疑者の自白によってアジトをつかむとか、そういう線をたどってキャッチした被疑者をさらに尾行して、その立ち寄り先を張り込むとかいうようなことですね。

----取り調べのほうは・・・

取調べはずいぶん困難でした。彼れは確信犯で、悪いことをしたという意識がない。警察官を犬扱いにし、みずからは革命的なヒロイズムに酔っているのですから、その取調べはなかなかでした。
理論で相手を説得できればそれに越したことはありませんが、頭脳も学歴も当方が劣勢だから、そうはいかない。
そこでわたしは、共産党の幹部の行状とかを問題にして説得しようとしたのですが、こちらの知識が付焼刃であるあいだは、われながら迫力がなかったみたいですね(笑)。

当時の『第二無産者新聞』は、共産党の大衆的機関紙で、その記事を丹念に読んだわけですが、わたしが注意をひかれたのは、共産党以外の無産政党系の諸運動を"裏切り"と口をきわめて攻撃するほか、党内に派生した分派などにたいする激しい攻撃記事でした。これはどうしたことだろうと、わたしは驚きましたね。一枚岩の団結を誇る共産党がこれじゃボロボロじゃないか、とおもった。しかも、だいたい労働者を名乗る集団がインテリ的な中央に敵対しているようでした。

「プロレタリアートの党は唯一」なのだから、党内の正統派争いがいちばん熾烈で、それにもっとも近い思想傾向にあるものほど強くこれを敵視して、排撃することに躍起だった。支配階級やブルジョアと闘うより、党内闘争や無産大衆政党などとの闘争に全力を尽くしているという状態だったんじゃないでしょうか。

労働農民党内にフラクションをおき、自分たちが労農党を動かしていたとき、共産党は大山郁夫を"輝ける委員長"などとたたえましたが、治安維持法で解散させられたあと方針を変えると、新労農党を再建しようとした大山郁夫や河上肇を、こんどは裏切者よばわりしたでしょう。それで河上肇博士の『貧乏物語』の売行きがとまり、河上博士が新労農党を出て共産党の地下活動に加わると、ふたたびそれがよく読まれるようになった。著者の共産党にたいする忠誠の度合いによって、同じ著書の評価が変わるんですね。わたしなんか、おかしいとおもいましたよ。


共産党と共産青年同盟


----青年運動担当ということは、共産青年同盟(共青)が主対象だったのですね。

そうです。当時は治安維持法の対象は共産党と共青だけです。
共産青年同盟は、大震災のときに殺された南葛労働会河合義虎が創始者だといわれています。学生出身の共産党員を逮捕したら、共青という組織があることがわかったのです。四・一六のころですね。それ以前は全日本無産青年同盟としてやっていた
全日本無産青年同盟というのは評議会(日本労働組合評議会)加盟の組合や、水平社日本農民組合、大学や高等学校の社研(社会科学研究会)の活動家で結成した組織です。これを指導していのは共産党のフラクションで、三・一五直後の昭和三年四月に、無産青年同盟は解散させられました。

同盟とともに無産青年社というのがあって、同盟の中央機関紙として活版刷りの『無産青年』を発行していましたが、無産青年同盟の解散後は、国際共産青年同盟日本支部の名で活動をやるというので、これを共青の機関紙にした。だから、無産青年社も非合法組織になった。共青をそれまでガリ版刷りで出していた非合法機関紙『レーニン青年』を『無産青年』に一本化した。これをめぐっては内部で意見が分かれ、対立があったようです。

共青は共産党と同様、コミンテルンに従うもので、党の綱領に青年の要求を加えたものを綱領として、党から全面的な指導を受けて活動し、党が武装すれば武装し、党の要求に応じて動員されるというように、一体となって行動していました。
共青は、綱領、政策もスローガンもまったく共産党と同じですから、当然検挙の対象になりました。で、この共青内のフラクションはケルンと呼んで、他の大衆団体内の党員とは区別していました。
たとえば伊藤律なんかも、はじめて昭和八年(一九三三年)に検挙されたとき、すでに党ケルンだったのだが自白せず、昭和十五年(一九四〇年)の取調べのときに、「じつは」というようなぐあいでした。

で、四・一六のあと、党幹部はぜんぶやられてしまい、検挙をのがれた京浜の地区委員クラスの田中清玄が、残党をあつめて中央ビューローをつくり、中央部でアジ・プロと機関紙を担当していた佐野博が共青担当になった。このころ、田中も佐野も二十三、四歳でしょう。血気さかんだったわけです。

共青のほうは元東大新人会竪山利忠が委員長になり、紺野与次郎らに組織をつくらせた。共青は、都内の高等学校、大学の学生が多かった。党も共青もインテリの比重が大きすぎる、もっと労働者をふやさなければいけないということをやかましくいってました。じっさいにインテリに反撥する労働者的な反対派があったり、水野成夫らの一派が反対者派を名乗ったりで、混沌としていました。

----共青組織八〇パーセントが学生で占められているのはまずいから、学生を共青から分離して、資金・技術部の方面をやらせ、共青は工場労働青年でもって組織させるというような方針が出ていますね。一九三〇年(昭和五年)のはじめだったとおもいますが・・・

ボルシェビキ化をはかれということですね。しかし、けっきょくそれは成功しなかった。工場労働青年どころか、だんだん街頭化し、文化サークル化してしまう。風間丈吉が委員長だった昭和六年(一九三一)年ごろには、文書共産党といわれたくらい、印刷物はいっぱい出る、プロレタリア文学・演劇運動など文化活動は活況を呈するというぐあいで、表面はずいぶん華やかでしたが、労働者の組織化はたいしたことはなかった。ボルシェビキ化は掛け声倒れだったのでしょう。
しかし、昭和六年ごろに共青の委員長となった岸勝は国鉄の三鷹車庫の労働者だったし、国鉄教習所(堀江星治)、東洋モスリン(飯島喜美)芝浦製作所(加藤菊枝)などの経営細胞もできていってはいました。

----共青はもっぱら行動隊として動員されるのですか。

そう、田中清玄時代ですから、竹槍メーデーとか東京市電の渋谷事件の焼打ちとか、共産党三・一五被告の奪還闘争とか、それから特高警察にたいするテロ行動隊の計画などがあって、そういう武装行動隊員に共青のメンバーが動員されています。

わたしが特高係になって半年ほどあとに総選挙があった(一九三〇年二月)のですが、共産党は「議会の破壊」をうたっていて、議会制など全然認めていません。しかし、選挙は当選が目的ではない、アジテーション・プロパガンダの場所である、というので候補者を立てた。そうして工場や経営などに党のビラを入れるための行動隊を組織し、この行動隊員の多くが共青のメンバーでした。
このビラ撒き行動隊は、短刀とか、いろんな凶器を携行していて、わたしたちは丸腰ですから、ずいぶん怪我人を出しました。このいわゆる武装共産党の時期の党や共青の過激な計画はいろいろあったのですが、こちらではだいたい事前にそれらの動きを察知して、ほとんど事前に検挙しています。ビラ撒き行動隊でも、早朝どこそこの工場前に共青のメンガーが集結するというので、その前から張り込んで、集まったきたところを検挙するんです。

----動静を事前に探知するというのは・・・

内部からの情報があるんです。

----スパイ、ですか。

そうですね。だんだんとそういうふうに特高もつよくなっていったのですね。はじめは、ごくごくすくなかったのが、だんだん多くなっていった。

----武装共産党時代よりも、その後、さらにふえる、ということですか。

共産党でも共青でも、非合法化の組織なのだから、むろん防衛を固めている。しかし逆に、非合法化の地下組織であるということが、活動家の私生活を乱れさせるもとになったとおもいますよ。どこでどういう生活しているのかというようなことは、絶対お互いに聞かないんだし、聞けないんですから。
党にあがってくるカネを生活費に使っちゃうとか、ハウスキーパーを妾として使うとか。しかし、誰も突っこんで究明したりすることはできない。ただ、それをおかしいと疑問に感じた人間が、ごく近い人間にだけ「おかしいぞ」ともらすといったことですね。

----共青担当でも、たとえば田中清玄の逮捕とかには動員されたのですか。

昭和五年(一九三〇年)の夏だったとおもいます。豪徳寺の近くの神社に集まって、田中のアジトに向かった。物騒でしたよ。田中はピストルを肌身離さない、家にいるときは台尻のついた短銃と拳銃を持っているといわれていた。こちらは何も持っていなかった。

----宮下さんが担当した共青関係で、すぐれた指導者だと感じた人物はいますか。

共産青年同盟ではいなかったですね。労働者出身では理論的に高い者はなく、学生は、概して上流家庭の子弟が多かったせいか、労働者気質を理解しているとはいえなかったようですね。簡単にいえば、現実を重視せず、観念的な認識で、宣伝扇動的な強調用語をあたかも絶対の真理とおもいこんで働くというような、そういう独善的な者が多かったようにおもいます。それから、若さにありがちなヒロイズムですね。

----日本共産党が三二年テーゼで「天皇制の廃止」をハッキリさせた。党員や共産青年同盟のそれへの反応はどんなものでしたか。

労働者は、天皇制廃止なんてどうでもいい、それを掲げて弾圧されるのなら、そんなものはあるだけ邪魔じゃないか、俺たちに用のないものを掲げることはない、ということだったでしょう。全共だって反対がつよかったのを、共産党が強引に押しつけたのですから。
しかし、インテリ出身の党員たちは、天皇制廃止に反撥したり反対することはなかった。というよりむしろ、それあってこその共産党なのだ、ということでさえあったのではないのでしょうか。

共青の行動隊を検挙したなかに、黒川信雄と信夫満次郎というのがいた。黒川というのは日本郵政かなにかの社長の息子で、信夫は外交官だった信夫淳平の息子だった。たぶん黒川だとおもうが、学習院高等科から東京帝大へ入って、共青の技術部長をしていたんだが、書かせた手記の「思想変遷の経緯」というところで、学習院で皇族に接し、皇族というものは不要だと感じた、そのため天皇制廃止を掲げる共産党が正しいと確信した、といっているんですね。

----「起訴留保」というのがありますね。あれはなんだったのでしょう。起訴留保というのは転向を認めて、ということなのですか。

起訴留保というのは、治安維持法の対象者以外には絶対にない、特別に寛大な措置なわけですよ。
非合法時代の共産主義者というのは、よく勉強している頭のいい、純真な青年が多かった。こういう有為な青年を社会に生かす、そういう考えがあった。改悛の情を示しさえすれば、という日本的な考え方かもしれない。
それから、良家の子女が多い。そして、寛大な措置をという、親や縁故者からの嘆願がいっぱいくる。それを押しきってまで、刑務所を満員にしてわざわざ国でメシを食べさせておくのもどうか、ということがあったわけです。

起訴留保の最初は、さっき言った日本郵政の社長の息子の黒川信雄なんですね。検事局へ送ったところが、親が猛烈に運動したらしい。検事局ではさんざん考えたのでしょう、「起訴留保処分」という措置をとった。起訴を留保しておく、おとなしくしていればよいし、そうでなければ起訴するというのですが。苦しまぎれだったのかどうか、黒川はそういうことで釈放され、そのあとぞろぞろ起訴留保がでるようになったんです。

あんまり起訴留保がふえるので、なんらかの基準をもうけなければいけないということになって、検事局の思想部長の名前で指示がきた。それは、学生であって改悛の情があると認められる者、というものでした。労働者はこのかぎりにあらず、こういう指示がきたんです。文書として残っているかとうかはわかりません。
特高である私たちは、おもしろくなかった。なんだ、これでは司法が階級的であるとハッキリ示しているようなものではないか、と(笑)。
大学生で、改悛の情を示せば、処分しない。労働者はこのかぎりにあらず。特高係の巡査は、大学なんか出ていない。警部補であるわたしも高小卒でしょう。みんな無産階級である(笑)。いや、ほんとうにそういう気持ちになりましたね。上のほう、検事局なんかでは、そういう感情が起こるというようなことさえ考えないんですね。

それでいろんな矛盾したことが起こってきます。たとえば、佐野学や佐野博の甥で佐野武彦というのが共青の早稲田細胞の指導者でいましたが、これも起訴留保。父親が東京商大の校長だった。細胞のキャップが起訴留保で、この男に誘われて共青や党に入った者が起訴。こういう変なことが起きてくる。おかしいじゃないか、とわれわれはおもうわけです。
で、改悛の情の顕著な労働者は検事局へ送らないで、われわれのところで釈放してしまおう、と(笑)。

労働者なら、検事局は起訴するというんだから、これは可哀そうでしかたがない。彼らは現実の生活からその窮状を訴えたいものを多くもっていたのだろう。それが階級的な見地からどんどん起訴して処罰される。一方、学生は頭のなかの知識からマルクス主義や共産党に入ってきて、観念的に労働者を扇動したりしておいて、捕まって親兄弟が嘆願し、釈放される。これはわれわれは労働者に同情します。で、どんどん釈放した(笑)。
これが大量にスパイを発生させたもとになったのかもしれないとおもいますね。




 特高の回想―ある時代の証言 (1978年)

 特高警察秘録 (1952年)

 貧乏物語 (岩波文庫)

 日本共産青年同盟の情勢と其任務 (昭和5年) (無産青年リーフレツト〈第1輯〉)


宮下弘 『特高の回想 ある時代の証言』より

抜粋(1)・・・・・・あのころ社会主義者の評価は家賃踏み倒し屋(笑)。

抜粋(2)・・・・・・日本共産党は「議会の破壊」をうたっていた。良家の子女が多く、検挙しても親の猛抗議で釈放。



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