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宮下弘 『特高の回想 ある時代の証言』より抜粋(1)・・・・・・あのころ社会主義者の評価は家賃踏み倒し屋(笑)。

特高の回想
特高の回想―ある時代の証言 (1978年)



面白い本に出会ったので、一部を抜粋、紹介します。

警視庁特高第一課係長・宮下弘氏の回想録です。
ゾルゲ事件につながる伊藤律の供述を引き出し、尾崎秀実も取り調べた人物です。

伊藤は北林トモの正体を知らなかった。尾崎は赤化日本の主席になるつもりだった。
銃をぶっ放す日本共産党員に、生身で立ち向かい殉職する特高。

ドラマ化したら数字取れそうな一冊です。

1978年6月30日初版発行。アマゾン貼っときました。古本のみです。文庫本化はされてないみたいです。素敵な本なのに残念。

抜粋第一回目は、宮下氏が特高課に配属される以前、街のお巡りさん時代のエピソードなど。
関東大震災直後、朝鮮人保護と飯のお世話、警察は民事・争議の相談所、楼主と政治家の癒着酷過ぎ、そんなお話です。







関東大震災前後


---- 一九二三年(大正一二年)の関東大震災のときは、どこだったんですか?

三ノ輪の大関横町派出所勤務でした。
揺れがやんでから、すぐ制服に着かえて出勤しました。非常のときはすぐ出勤せよ、というきまりがありましたから。火事はまだおきてませんでしたね。
三ノ輪に馳せつけると、私の役目は炊き出しでした。罹災者たちに食べさせなければならない。米やパンは他府県から、あとになるとミルクがアメリカから送られてきましたね。軍隊の炊き出し釜を使って、私はとにかく炊き出し専門です。みんなが食べものに困っているときに、警察署ではいちはやく食料の配給をしたので、民心は安定しました。

---- しかし警察機能なんかもマヒしてしまった、ということはあるんでしょう。

あなたがいちばんおききになりたいのは、例の流言蜚語、朝鮮人や社会主義者の虐殺といったことでしょう。
たしかに、朝鮮人や社会主義者が放火している、井戸に毒を投げ込んだ、という噂がバーッと広まった。新聞は出ないしラジオもありませんし、情報がないときだけに、非常に不安定な状態だった。

しかし警察電話は通じていて、警視庁からは九月二日付の総監指令がきました。要約すると、
(1)流言防止と厳重な取締
(2)不逞行動の取締
(3)朝鮮人を迅速に保護収容し、内鮮融和を図る
(4)自警団の凶器携帯を禁じ、断固取締まること
というものです。で、朝鮮人を収容すると、またこの人たちを食わさなきゃならなくなった。炊き出し係りとしてはたいへんです。

わたしの家の近所でも、この朝鮮人云々の流言蜚語はたいへんなもので、「このごろは朝鮮人が巡査を殺して制服を着て巡査に化けているんだから、巡査だって信用ならない」というわけだ。
自警団がえらい権威をもっていましてね。地方から応援にきた巡査なんか朝鮮人とまちがえられて、あぶないからもう出歩くな、と(笑)。そうとうの脅威でしたよ。派出所の前にも自警団がたむろしていて、向うのほうが数は多いし、威張っていて。夜になると酒のんで騒いで、まるで祭りのときのようにはりきっている。連中は土地の人間で、お互いに衆をたのんで強いけれども、こっちは一人、二人で、なかなか取締るどころじゃない。
そういうヒステリー状態のなかで、いろんな人間がいろんなことをやって、とんでもないデマが信じられたことは事実ですね。

大震災のときの自警団というのは、まったく自発的にできたもので、警察もめいわくしていたわけです。朝鮮人を殺した自警団の連中は、のちに検挙されて、殺人罪で起訴されています。『警視庁史』によると、自警団員の犯罪は、殺人四十五件百六十一名、傷害十六件八十五名、強盗一件一名、計六十二件二百四十七名が一斉検挙されています。

ただあのころ、社会主義者や朝鮮人は、ふだんから一般の人に警戒されてはいた。社会主義者の評価は家賃踏み倒し屋(笑)。家を借りると家賃を踏み倒す、会社へ行っちゃ金をせびる、始末におえない連中ということだったんですね。社会主義といっても、当時は主流がアナーキスト、ニヒリストで、辻潤なんか人気があった。家主は金持ちなんだ、会社は労働者を搾取しているんだ、というので、家賃踏み倒しや恐喝を「正義の悪」としてやる。

南千住署の管内に朝鮮人はひじょうに多かったのですが、朝鮮人のほうは、底抜けによい人間がいる半面、底抜けに悪い奴がいる。悪いほうがとにかく朝鮮人の代表のように見られて、いやがられたんです。生活の流儀が日本人となじまないで、ニンニクを食うから臭い、朝鮮人だけで徒党を組んで、わけのわからない言葉を大声でがなりたてる、ひじょうに下等な人種だ、というように一般に見ていたんじゃないか。

そのほか、四年前の三・一大暴動という朝鮮独立運動の背景があって、朝鮮人の一部には物騒な計画があるんじゃないかと。朴烈・金子文子事件なんかで、朝鮮人は危険な行動をするとおもわれていた。それから、アメリカでの日本人労働者排斥運動と同じで、安い賃金で日本人の労働力市場を奪う好ましからぬ人種という反感もあった。

社会主義者や朝鮮人の話のついでに、部落問題についていえば、外勤巡査当時の私は、受持区域にそういう住民をもたなかったせいか、上司の訓示や指示のなかにも記憶に残っている話はありません。三河島町峡田巡査派出所管内には、皮革工場もいっぱいあったから、問題があれば当然わたしも目を向けたはずですが、私の在勤中にトラブルがなかったのでしょうね。

それより、峡田管内のいわゆる千軒長屋の貧民、博善社(火葬場)に集まる乞食の集団のほうが、大変な社会問題で、警察にとっても厄介な対象として目にうつっていましたね。わたし自身ひどい貧乏生活のなかで育ちましたが、彼らはもっと惨めで、しかも集団として存在するので、一般から隔絶して特殊であり、いったんそこへ落ちると抜け出しがたいように見えました。

とにかくわたしは、情けないことですが、大震災では食うことだけが最大の記憶にのこっていましてね(笑)。
大関横町の派出所の前に屠殺場があって、これが震災のために荷がはけなくなって、豚、牛の肉がどんどん腐っちゃう。引きとり手がない、いくらでもいいから持っていってくれといわれて、買いに行った。食料に困っていましたから。ほっとしたことがありますよ。豚の足一本五十銭で買ってきてね。


警部・警部補試験


----それから巡査部長になるための試験を受けられたのですね。

わたしは司法係内勤にされたのです。ところが、司法主任の長浜警部は高文(高等文官試験)を受けるために勉強していたものだから、自分の作成すべき調書をわたしに書かせた。すこしわたしが馴れたら、調べも君がやってくれ、ということになりましてね。
長浜の下に佐藤警部補というのがいましてね、陸軍中尉出身なのだが、バクチうちの親分と通じていましてね。酒は飲む、女はつくる、芸者遊びはする。だから賭博常習犯を検挙してきても、いい加減に調書をつくって軽罪にしてしまう。

そういう司法主任と副主任の下ですから、まともな仕事は全部わたしがやっていた。わたししかやらない(笑)。これが実践的にたいそう法律の勉強になりましたね。
それから人事相談係になり、法律の勉強をする余裕ができました。それでポツポツ勉強していますと、上司から警部・警部補の考査試験を受けてみないか、という誘いがありましてね。

受けてみましたら、意外に高点で合格しました。
受験者は七百人近くいて、予備試験の合格者は三百人くらいなのですが、三番で入りました。本試験はこれに判任官試験の受験有資格者が加わって、四百人くらいが受けて、約七十人が合格した。

長浜主任は高文を受験するのをあきらめ、警察を辞めて三島の町役場の助役かなにかになったし、佐藤副主任も悪事がバレて罷めさせられた。

----人事相談係というのは、どんな内容の仕事なんですか。

警察は民事は扱わないというタエマエになっていたのですが、じっさいには駐在所などには、夫婦喧嘩まで持ち込まれたりしている。
人事相談係というのは、そういう住民の生活上のいろんな問題、女房に逃げられたとか、金を貸したが返してくれないとか、家主から立退きを迫られているとか、高利貸しに苦しめられているとか、いろんなことが持ち込まれるのを受け付けて相談にのるんです。まあ、信用があるんですね。

争議の相談も持ち込まれましたよ。小さい町工場の争議なんですが、膠着状態になって解決がつかないというような事態のなかで、従業員の側から持ち込まれる。また、争議というところまでいかなくても、賃金が安すぎる、労働時間が長すぎる、怪我をしたときに親方がめんどうをみてくれなかったとか、そういうことですね。労働争議は署の高等係、大きな問題は本庁(警視庁)の特高課労働係というのがあって、そちらだったのですが。

当時の借家法では一般になかなか借家人が威張っていましてね、家賃なんかなかなか払わないのもいた。だから、家主のほうからの苦情持ち込みもよくありました。三年も家賃を払わないんだが、なんとかならないか・・・(笑)。


千住遊郭の「ドン・キホーテ」


巡査部長になったのは、大正十五年(一九二六年)の二月ですね。外勤の監督を半年くらいしてから、保安係を命じられた。
保安係の巡査部長というのは、バクチとか私娼取締り、それから千住管内には遊郭がありますから、それの監督などをする風俗警察で、私服です。ふつうは半年ぐらいでは私服になれないのですが、保安係の前任者だった品川というのが、バクチうちの親分と懇意になりすぎて、親分の親戚の娘を、しかもその親分の仲人で式を挙げたという男で(笑)。さすがに世間の非難があつまって保安係じゃまずいということになって、高等係にかわったんですね。

高等係というのは、町の政治家、つまり区や町内の顔役と署長とのあいだの連絡係で、署長に代わってこういう連中とふだんつき合っているんです。保安係が風俗警察であるのにたいして、高等係は思想警察の面も担当しているのだが、当時はまだそれほど思想方面はやかましくなかった。

遊郭の取締りが保安係の担当なのですが、これが従来は娼妓だけを取締まっているんですね。たとえば娼妓の客引きは、格子内で顔を見せている程度で、貸座敷の外へ出て客を内へ引っぱりこんではいかん、それをやった、というので娼妓を科料にする。それでは娼妓が可哀そうではないか、彼女たちは貸座敷業者に強いられてそうしているんだと、業者のほうを共犯として取締ることにしました。貸座敷業者とは法律上の名称で、娼妓を前借でかかえて売春させるいわゆる楼主です。

それをやっているうちに、娼妓の心中事件などがありまして、悪どい貸座敷業者が娼妓にたいして過酷になことをやっているんじゃないか、それを摘発しようと。
で、貸座敷業者と娼妓との関係をみるために、業者の帳簿を調べることにしました。たとえば衣装ですが、呉服屋から納めさせた着物を、娼妓にいくらで売りつけているか、つまり、その衣装代は娼妓の業者への借金になるわけですが、いくら代金に上載せしてふんだくっているか、とかですね。悪どい搾取をあばいた。

それを三軒やったんです。二十日ずつの営業停止処分にした。詐欺または横領罪で事件送致(笑)。
そんなふうにしてやったものですから、警察が娼妓の味方をしてくれるというので、自由廃業の駆け込みがありました。警察へ逃げ込んだ娼妓を遣り手婆さんが追っかけてきた。窓口でゴタゴタしているので、私が出ていきまして、「娼妓が廃業を申し出るときには直ちに受け付けねばならないと規定にあるじゃないか」といって、受け付けさせた。

公娼制度といったって、人身売買を許していたわけではない。自由廃業といって、本人の意思で届け出れば、娼妓をやめることはできたんです。しかし、借金は別です。借金は借金、営業は営業ですね。じっさいには貸座敷業者がいろんな形で前借を減らさないようにしている。それを返すために働かねばならないのです。

----しかし遊郭の業者というのは、なかなか政治的にも力があるものなのでしょう。営業停止処分などをおとなしく受けましたか。

いや、それでわたしは第一回の普通選挙のときに、転勤させられてしまった。昭和三年(一九二八年)のはじめですね。木島という本庁の警務部長が署長室へ乗り込んできて、宮下を呼べ、と言った。外出していると答えると、政友会に忠勤をはげめという、いやもう露骨な話だったそうです。当時、地方はともかく東京あたりでは、選挙干渉などやらなかったものですが、そのときは普選の最初ということで露骨にやった。みんな呆気にとられたと言ってました。

木島は夕方まで署長室で待っていたそうですが、わたしが帰らないものですから、警視庁に戻って直接自分で宮下の転勤命令を書いたらしいんですね。そういう例はそれまでにないでしょう。
翌日、辞令が届けられて、代々八幡警察署勤務を命じられた。それで代々八幡署へ行ったところが、うちには欠員はない、という。そんな辞令は知らない、しかしひょっとしたら、木島部長が自分で出したのかもしれん、というんです(笑)。

千住をふくむ選挙区で政友会から立候補していたのは、党の大物の前田米蔵中島守利でしたが、わたしの転勤は彼らへの支持票と取引きされたのだろうとおもいました。その取引きは千住の貸座敷業者によって進められたのでしょうが、博徒もこれに加担していたかもしれない。

----代々八幡署でことわられて(笑)、それで空きのある署に回されたわけですか。

本所原庭署に回されました。
昭和四年(一九二九年)二月に警部補に任官して、尾久警察署に移りました。本所原庭署には一年くらいしかいなかったことになります。尾久署は三ヵ月だけで、それからその年の五月に、本庁の特高課にかわりました。

----尾久署が三ヵ月で、本庁の特高課へというのは、特別に何か評価されてのことだったわけですか。

本庁へということは、やはり抜粋人事だったのでしょうね。三・一五四・一六で特高警察の拡充がおこなわれて、調書のとれる警察官を探せというようなことで、わたしなども引っぱり出されたのでしょう。

三・一五のときなどは、なんにも知らない警察官が動員されて、取調べたわけですね。調書をとれるものがすくないからというので、臨時に動員した。知識のない人間が調べるから、ひじょうに不十分な取調べになる。共産党に加入したかどうか、その程度で検事局送りになるというのも相当あったし、またかなり無理なことをやって自白させたりした。

三・一五で懲りて、調書のとれる警察官を探せ、ということになったんですね。




  特高>特高の回想―ある時代の証言 (1978年)


宮下弘 『特高の回想 ある時代の証言』より

抜粋(1)・・・・・・あのころ社会主義者の評価は家賃踏み倒し屋(笑)。

抜粋(2)・・・・・・日本共産党は「議会の破壊」をうたっていた。良家の子女が多く、検挙しても親の猛抗議で釈放。



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